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男性から女性 戸籍上の性別変更 手術なしで認める決定 広島高裁 | NHK | LGBTQ
「生物学的な性別」と「自認性」は別のもの、切り離して考えられるものだってトランスジェンダーの方々が1番わかっているのではないのだろうか。にも関わらずそこを一緒くたにした「女として扱って欲しい」は権利の主張を盾にした一種の暴力だとこのニュースを見て私は思った。
「生物学的な性別=同性として関わる事が出来ない部分」、「自認性=同性として関わる事ができる部分」って切り離して考えて欲しいだけで、決してトランス女性を女性だとは認めないって話にはすり替えないで欲しい。
私たち「生物学的にも女性、自認性も女性」が言っているのは差別じゃなくて区別だよ。
トランス女性に対してこういう発言をするのは配慮がないとは自覚しているけど、自認性が女性だったとしても生物学的に男性である事実は変わらないし、多くの(生物学的にも自認性にも)女性が「同性が入って来た」ではなく「異性が入って来た」って捉える。だからこそ、女湯であったり女子トイレであったりと同性として関わることが出来ない部分への介入を望まれる事は怖い事なんです。
性自認は女性だったとしても、今まで生物学的に男性だったという事実が貴方を搾取される側にさせなかったし、だから私たちが言ってる搾取される怖さを本当に理解する事は出来ないんだと思う。けれど、「私は女性だから女性として扱って!」って言うんだったら搾取される側の気持ちにちゃんと向き合って欲しい。
【追記】
SNSで見かけた「生まれた時に性別を区別するのはおかしい!性自認も定まっていないのに!」って発言に対しては、実際問題身体の機能構造が違う部分の診察を性自認が〜云々って言ってパスできる訳ないし、発症に対して性差がある(例えば染色体的に女性しか発症しない疾患、男性しか発症しない疾患)疾患だって少ないけれどあるのだから新生児の時点から生物としての性別の判断は医学的に必要なものだと思っている、その人が生きていく為に。
それだけの話だから自認の話をここで持ち出してくるのは正直いち医療者としては勘弁して欲しい、じゃあ何もするなって事?と思ってしまう。医療は勿論診療科にもよるけれど、大体は身体にフォーカスを当てたものである前提を忘れないで欲しい。
罪の声 感想文
罪の声やっと観れた〜!
時差がすごい。いつもなんですけど時の流れに大体ついていけない、時の流れに乗るのも体力が要るので、、
これも実話の事件(森永グリコ事件)ベースに描かれた物語らしい。実家にあった謎のカセットテープを星野源演じる曽根俊也がたまたま見つけ、自分が物心つかない時期に犯罪の片棒を担がされていた事を知ってしまう所から始まる物語。
1番の感想は関西弁の小栗旬、かっこいい。
2番目はありきたり感想だけど自分の正義と自己満足について考えさせられる映画って感じだった。
過去の時効が過ぎた事件を、当時何も知らずに犯罪の片棒担がされていた自分達を巻き込んでまで掘り返す意義について曽根俊也が阿久津に問いかけるシーン、貴方達は真実を知ってスッキリしてエンタメとして消費するだけだから良いかもしれない、けれど自分は?自分にも家族がいる。事件の真相が暴かれ時、家族の安全はどうなる、我が子の将来はどうなるのかって言われて阿久津が言葉を詰まらせる場面が印象に残った。
阿久津はその時まで「未解決の事件の真相を明らかにする正義」だけに目が向かっていて、の家族や曽根の気持ちにまで目が届いていなかった事に気づく事が出来たのはかっこいいなって。
もうひとつ印象に残ったのはラストの幼少期の曽根に犯行声明を読ませ、録音したのが曽根自身の母だとわかるシーン、当時の社会への憤りに対する行動だった事を吐露した母に対して僕の事は考えてくれなかったのかと問いかけた時に涙を流す母の姿も印象的だった。多分今になって後悔してるんだろうけど、本当に後悔先に立たずってやつだねと。
自分の信念やら正義やらが大きくなってしまうと人は視野が狭くなるし、「こうした方が正解だろう」って思って動いている時程相手の事が見えなくなっていく感覚ってある。
そしてそういう時って大体悦に浸ると言いますがちょっと気持ちが良い。自分に対する酔いみたいなものが少し混じってると思うから。でもその時の視野の狭まりこそが自己満足の行動を引き起こしていくんだなと改めて思わされた。
対人との関わり必須な業種に携わっている癖に自己満足パラダイスからの悦浸りタイムおいし〜ちゃんだから(終わり)、限界社会人なりに自己満足の行動にならないよう常々戒めて働きたいものですね。気をつけます。
おしまい。